そい じょ 

川崎さとみのプライベートブログです。 

数学放浪記

 『数学放浪記』ピーター・フランクル著 晶文社 を読んだ。

http://www.amazon.co.jp/%E6%95%B0%E5%AD%A6%E6%94%BE%E6%B5%AA%E8%A8%98-%E3%83%94%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%BC-%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%AF%E3%83%AB/dp/4794960409/ref=sr_1_1?ie=UTF8&s=books&qid=1239468956&sr=8-1

 

 数字アレルギーと言えるほど「数」に弱い私ですが「ジャグリングする数学者」の表紙に惹かれて買ってしまった。

 

 あぁ、やはり数学者は異星人だ。

著者は子供時代に姉の数学の教科書を覗き見して、見るだけで解けるようになったという!

「1を見て100を知る」とは、こうゆうことなんだろうな。

 

 著者はハンガリー生まれのユダヤ人。

ヨーロッパの中でも「ハンガリー」という、私にとって馴染みの薄い国の話しは大変、面白かった。

また、彼を取り巻く数学者仲間も、それぞれ「ありえない」魅力に溢れた人たちである。

 

 「ユダヤ人の財産は心と頭にある」そうだ。

そうね、持ち運び自在、心と頭は人間にとって究極の財産だと思う。

 

 考えてしまったのは次の一節である。

 

p21_ しかし、じつはユダヤ人という言葉自体が差別用語なのである。「最後の晩餐」の絵で有名なキリストの十二人の弟子たちは全員ユダヤ人なのに、ユダヤという言葉は、その一員に過ぎないユダの名前にのみ結び付けられてきた。彼はローマ人にイエスの行方を教えて裏切り者となったが、のちにそれを悔いて自殺している。キリスト教徒がユダヤ人にいだく恨みの原因は、イエスがユダヤ人だった事実にある。マリアも、マリアの夫ヨゼフもユダヤ人なのだから、イエスもまたユダヤ民族の一員である。キリスト教徒は、自分のもっとも大切な人物がユダヤ人であるからこそ、ユダヤ人が許せなかったのだ。_

 

では、ユダヤ人を何と呼べば差別用語でなくなるのだろう。

シオニストとでも・・?